ウズベキスタンは中央アジアきっての親日国家だそうです。
小泉首相、ウズベキスタンへ
【アスタナ=高木桂一】中央アジア歴訪中の小泉純一郎首相は29日午前(日本時間同日午後)、カザフスタンのアスタナから第2の訪問国ウズベキスタンの首都タシケントに政府専用機で向かう。
首相は29日夕(同日夜)、カリモフ大統領と会談し、経済やエネルギー資源開発、国際テロ対策、北朝鮮問題などのテーマについて両国間の協力を強化していく方針を確認する見通し。首相は、米欧から非難を浴びているウズベクの民主化、人権問題について言及するとみられる。
中央アジア5カ国で最大の人口(約2660万人)を抱えるウズベクは旧ソ連崩壊後、「中央アジアの盟主」を自任していた。しかし、ここ数年は石油景気の恩恵で経済成長を遂げているカザフの陰に隠れつつある。
一方、ウズベクは中央アジアきっての親日国としても知られる。首相としては中央アジアの主要国であるカザフ、ウズベクとの関係強化を土台に日本の対ユーラシア外交を軌道に乗せたい考えだ。
(08/29 08:23) 産経新聞
中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの5カ国は、旧ソ連邦に属していた関係で反共産主義であり、日本には総じて好意的なのに対して、中共に対してはあまりいい印象はもっていません。
中でもウズベキスタンは中央アジアきっての親日国家であり、自国の経済改革を目指すにあたり、日本の明治維新・戦後復興を手本にし、日本の発展過程を研究する為に100人を超える人材を日本に留学させています。また、ウズベキスタンの大学では300人を超える学生が日本語を学んでいるそうです。
これに対して日本も、日本の孫崎享前大使や千野忠男前大蔵省財務官らが、熱心に経済界や政府を説得して各種経済使節団を現地に送り込んだ他、1996 年 10 月から、大蔵省の北村歳治財政金融経済研究所次長がウズベキスタンの金融アカデミー副学長として赴任するなど人的交流を進め、また、現地の日本センターを中心に日本語教室や、各種ビジネス・コースを通じて、経営の基礎を教えて経済成長の基礎を教育で支えるとともに、ODAの最大供与国として、財政面でも支えています。
モンゴルやウズベキスタンを初めとする旧ソ連邦から独立した中央アジアの国々に親日国家が多いのには理由があります。
以下、元内閣官房参与・中川恭子氏「国際テロに遭った日本人被害者を救出するのは、日本政府の使命」(大紀元)より抜粋
>>ウズベキスタンの77%を占めるウズベク人は「日本人そっくり」の容貌をし、極めて親日的であると述べた。生活様式も畳こそなく絨毯であるが、夜は「敷き布団」「掛け布団」で就寝し、コタツで一家団欒を楽しんでいるという。現地人は「容貌だけでなくわれわれは日本人と心が似ている」と言い、日本人に対して、極めて好意的な社会だという。
ウズベキスタンでは、1945年から46年の間、シベリア抑留日本人(POW)25000人が連行され、現地のインフラ工事に投入されたという。その日本人たちの当時の仕事ぶりはとても丁寧で、その「成果」が現在でも現地に残っており、現地人たちは当時の様子を思い出し語っているという。ウズベキスタンの首都近郊・デカバードの市長によると、現地の水力発電所に使用される巨大貯水槽は当時の日本人が「手掘り」で構築したものだという。同市は、砂漠の中のひなびた町であったが、この水力発電により緑化し、以来55年間休まず電力が供給されていると今でも感謝しているという。
また、首都の「ナボイ劇場」も日本人捕虜が使役されて建設したものだが、当時首都近郊の「日本人強制労働収容所」近くに居住していた現地人は、「少年の頃、よく収容所の壁の隙間から、日本人収容者に自家製のパンや果物を差し入れていた」という。現地は寒暖の差が激しいために、果物の糖度は非常に高く生育する。ウズベクの家族は、祖父母が孫と暮らすという昔ながらの「三世代同居、日本人家族の原型」を現在まで保持している。壁に囲まれた大家族の各家には、「葡萄」「杏」「桜」などの木が植えられており、当時の日本人捕虜の食糧事情を心配した現地人が食糧を差し入れると、数日してこれら日本人捕虜たちは、何と手作りの「玩具」を同じ場所に置いて謝意を表明したという。これらの行為は、現地人の道徳的規範として賞賛されていたという。
中山氏は「結局、国と国とのつながりは、人と人とのつながり」と述べ、現地では、日本人捕虜の埋葬された墓地の位置を現在でも現地人が記憶しており案内してくれているという。シベリア抑留者が「二度と思い出したくない」と言っているのに対し、ウズベク引揚者らは国内で良く連絡を取り合い、また現地に行って「ウズベク人との交流」を望んでいるという。日本大使館の調査によると、デカバード近郊の日本人共同墓地跡には、「土饅頭」が点々と有り、埋葬された人たちはみな20代の「若い日本人」であることが判明したという。中山氏は現地に桜を植えることを決意、2002年3月に桜の苗木1300本を「各日本人墓地」「タシケント中央公園」「首相官邸」などに植樹した。<<
抜粋終わり
ソ連の捕虜となった日本人抑留者はシベリアのみならず中央アジアの国々にも送られ、主に各地のインフラ整備に従事し、今でも数多くの建築物が残っています。
ウズベキスタンが今日、親日的でありうるのは、過去、私たちの先祖が、大東亜戦争に敗戦し、理不尽にもソ連の捕虜となって抑留され過酷な強制労働に従事させられようとも、日本人としての誇りを失わずにひたむきな努力をつづけ、逆境にあっても誠実さを失わなかったことが、現地において尊敬される日本人像として今もなお残っているからなのです。
今日の日本の地位が、こういった方々の努力と尊い犠牲によって成り立っていることを忘れずに、未来の私たちの子孫がけして侮られることの無い様、日本人としての誇りだけは忘れずに生きていきたいものです。
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参考サイト
ウズベキスタン共和国の紹介 (日本ウズベキスタン協会)
松宮政務官のウズベキスタン訪問 (外務省)
元内閣官房参与・中山恭子氏「国際テロに遭った日本人被害者を救出するのは、日本政府の使命」 (大紀元)
ウズベキスタン日本センター (政府開発援助HP)
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